Yogaの歌姫ダフネ・ツェの半生/2017年5月インタビューより

現在、キールタンやYogaのシンガーとして世界中を旅しているダフネ・ツェさん。
人を惹きつけてやまない彼女の歌声と同じぐらい、その人柄も魅力的な方。
こちらは5月14日に開催されたHeart Celebration*でのダフネ・ツェさんへのインタビューを記録したものです。
Daphne: 今日は母の日ですね。そんなスペシャルな日に、こんなにたくさんの人にお集まりいただき、ありがとうございます。
ハートギャザリングに呼んで頂いたことを とても光栄に思っています。
ここに来ると、いつもこう、家に帰ってきたような。そんなホッとする場所でもあります。
ここで会えるみんなは本当に家族のような存在です。
いつもありがとう。
アメリカはテキサス生まれ、中国とメキシコの血を受け継いだダフネ・ツェ。明るく歌が好きな子供だった彼女は、教会で歌を歌い始めた。
H*:まずは、ダフネさんがどのように音楽の人生を歩んでこられたのかをお聞かせください。
Daphne:私が生まれたのはテキサス。
父は香港、中国の国籍で、母はメキシコ人。
そして彼らはテキサスで出会いました。
私は6人の子供の中の3番目として生まれました。
で、お父さんがよく言っていたんですけれど、私は常に歌を歌っている子だったらしいんです。
すごくにぎやかな子だったみたいで、自分の声を楽しむこと、探求することにすごく喜びを感じる子だったんです。
だから、今も何も変わってないのかも(笑)。
カトリックの家族に生まれたので、教会によく行っていました。
なので私が最初に歌を歌うことを始めたのは 教会だった。
だから若い頃は、その教会で、みんなと一緒に歌を歌うことをとても楽しんでいました。
あとは、POPミュージック。
そういった人気の音楽を歌うことが好きだったわ。
鏡の前に立って、髪の毛をこうとかしながら(笑)、その時の流行りの曲をよく歌っていたかな。
人前で歌うようになってから、純粋に歌を楽しんでいた自分からは、どんどん離れていってしまったダフネ。その頃求められていたものに、頭が支配されていってしまったという。
でも高校の頃はまだ、私はソロで歌うことは苦手だったの。
少し恥ずかしい面もあって。
誰かと集団で歌うということは好きだったんだけど。
そしてシャワーの中でひとりで歌うことはとても好きだったわ。
でも、その頃の先生がね、私にソロで歌わせたんです。
だから、14歳まではソロで歌ったことがなかったの。
テキサスは音楽が盛んで、フォークミュージックも有名だったので、そういった音楽も好きだったし、またいろんな歌手の声を聞いて、あんなふうに歌手になれたらいいな、歌えたらいいな、と常に夢は持っていました。
そんな中、私の所属する歌のサークルの活動では、他校と競争をしてどこが一番よかったか、というふうに決めるような大会もあったの。
その頃は完璧・完全というのを求められていて、そういったものがもうパッケージになって、早くもこのころからそういったものが自分の中に強くあったんですね。
可愛くなくちゃいけないとか、よく歌わなくちゃいけない。
正しく、正しい音程で歌わなくちゃいけないとか、どのようにして人からよく見られるか。ということをとても意識していました。
そういう意味では、大学に入る頃まで、私は歌を歌うことを競争していたと思います。
だから、歌を歌うことが頭で支配されるようになっていたんですね。
頭で支配されるようになっていて、心で感じることを忘れてしまうようになってしまっていました。
大学卒業後はロサンゼルスに移動しました。レコーディングの契約を取りたかったんですね。
コマーシャル等の歌を歌えたらいいなと思って、LAに行きました。
それが22歳。
契約をしたら写真を撮られたり、オーディションを受け続けるような日々が続きました。
そして、オーディションを受ければ受けるほど、自分を見失っていくのがわかるんです。
胸が大きくなくちゃいけないとか、もっと綺麗でなくちゃいけないとか、ね。
それぞれのオーディションで違うことを求められて、どんどん自分というものをーーなんて言うんでしょう、自尊心ていうのですかねーーそういうものを失っていきました。
それぞれの場所でこのようにいなくてはいけないということを言われるので、そのたびに、そのようでなくちゃいけないんだと 自分を変えていったんですね。
その頃の私の目的、ゴールというのは、レコーディングカンパニーとの契約を取ることだったんです。
そのためなら何でもしました。
自尊心を失い、歌うことの理由、目的がわからなくなってしまった時、ダフネはある決断をして、新しい人生が始まった。
同時に、なぜこれをしているのか、どうして私は音楽が好きなのか、というその理由を忘れてしまっていたんです。
でも、ある日 ふと思ったの。
もう、やめよう。
そしてヨーロッパに行こう、
と。
それから全てを売り払いました。
そして片道チケットを買ってパリにいきました。
ギターを片手に、ひたすら旅を続けました。
特にツテがあったわけでもなく、知っている人もいなかったけど、ただ世界が見たくて旅に出ました。
そして、ヨガと出会ったんです。
違う文化 違う人々と触れ合うことによって、ハリウッドで植えつけられた外見がどうあるかっていうことの良し悪しの概念は、現地の人のとの情熱に触れることによって少しづつ変わっていったんですね。
そして、スペインがとても気に入りました。
特にギター。
そして、曲を書き始めるようになりました。
この頃に、自分の人生に一度リセットボタンを押したような。そんな感じです。
それからポーランドで、ある男性ミュージシャンに出会ったの。
彼はストリートで生活していて、ずっと1日中音楽を奏でていたわ。
彼に感銘を受けて、彼とともに歌って、そして彼の歌を書いたりして楽しく過ごしたんだけど、ギリシャについた頃にはもうまったくお金がなくなっていました。
そして、とうとう母に電話をしました(笑)。
そうしたら、母がみずからヨーロッパに来てくれたんです!
会いに来てくれた。
彼女にとっても初めてのヨーロッパだったんじゃないかな。
「状況はわかった」と。
「ダフネと、あなたと一緒にバックパッカーになるよ」と!

この日来場していたダフネさんのお母様。
「ドント ウォーリー(心配しないで)ツアー」という名前をつけたんです。 (会場爆笑)
そういった、いろんな冒険を母と共に過ごしてきました。
ある時は真夜中のホームで電車を乗り過ごして、でも、
「大丈夫。この電車が最後じゃないから。次もやってくるから。」て。
でも、それが最後の電車だったんです(笑)。
今日は母の日なのでお母さんのことを思い話しているんですけれど、この時が母との関係性をもう一度、再構築できたすごくいい機会だったと思っています。
そしてイタリアのミラノに移動しました。
そこには特に有名なものはないのですが、公園に行くだけで本当に気持ちが落ち着くような、そういう美しい景色に恵まれていました。
そこにとっても美しい教会があったの。
そして中からコーラスの声が聴こえたんですね。
それは本番ではなくリハーサル中だったと思うのだけど、長い長いの旅の終盤にたどり着いたミラノのとある教会で聴こえてきたコーラスの響き。
本番ではないので、誰も人が居ない。
私と母だけ。
母との思いがけない二人旅。そしてそこで大きなターニングポイントとなる気づきを得る。
二人の観客でコーラスの歌を聞いたときに、そのあまりに美しい響きの感動の中でハッとしたんですね。
私が歌を始めた理由、歌そのものが好きだったっていうことに。
ここでもう一度、はっきり再確認できたの。やっとね。
可愛く見られるため、完璧であるため、ではなく、ハートを感じる歌。
感じること、そして大いなる存在、その偉大なる存在との繋がり。
それとの繋がりのために私は歌ってきたんだ、と。
その瞬間、私は「私のしたいことはこれだ!」というふうに気がつきました。
新たな夢に向かって進むダフネ。ヨガの練習もこの頃から始まった。そしてある人物の出会いが待っていた。
そしてテキサスに戻ってお金を貯めようと思いました。
レストランで働いてウェイトレスをしたり。
時にはやりたくない仕事をしないといけない時もあると思います。
何かをしたい。
これをしたい。
という何かがあれば、そのためにサポートが必要になりますので、その時にはやりたくないこともやる必要がある時があります。
ウェイトレスをしながら大学は出てたので声楽の学校に行ったり、ギターを習ったり、とにかく音楽の勉強は続けました。
そして、シカゴに一年滞在して、音楽の勉強を深めつつ、ロサンゼルスへ移りました。
ロスは以前に3年住んでいたことがありましたが、今の自分はあの頃の自分とは違う。
だから、またあそこで、そして今の自分でチャレンジすることがとても新鮮に感じたの。
今度は自分が何をしたいかはっきりしているからね。
ロスへ戻り、戻るきっかけとなった友達がたまたまヨガをしていたの。その友達の誘いのままにヨガをはじめて、とても興味を持ちました。
そこからヨガの練習を始めていくわけですが、その時仕事がなかったのでヨガスタジオに行って「ここで働けますか?」というふうに聞いたんです。
「その代わりにヨガを受けさせてくれませんか?」ってね。
そうするとOKが出たの(笑)!
それでヨガスタジオのフロントデスクなどをやっていたんだけどね、その時にそこで大きなキールタンイベントをやったの。
来たのはカリフォルニアのジャイトーという人でした。
皆さんはジャイトーさん、知っていますか?
1971年にはじめてインドに行かれたそうです。
そこでニームカロニババと会ったそう。
ニームカロニババは世界で最も有名なキールタンシンガーのクリシュナダースの師匠ね。
その夜は、意味は全然わかってないのに、ただただ歌ったわ。
話をしたり説明を入れる時もあったのだけど、大概の場合は何の説明もなく歌ったんです。
でもハートの振動が、ここが私の帰る場所、家だというふうに感じたの。
これは、私にとって薬だ、薬になってる、というふうに感じました。
そしてそのコンサートのあと、その先生に話しかけに行きました。
で、「どうしたらあなたからもっと学べますか?」と聞いたんです。
教会のコーラスとキールタンには、何も違いがないことに気がついたダフネ。そしてさらに人生のバクティヨガの師との出会いが待っていた。
その数年後、彼のもとに私は学びにいくようになったわ。
ロサンゼルスに戻ったころに、さっきは言ってなかったのだけれど、その頃また教会に通い始めて教会のコーラスで歌い始めることもしていたんですね。
コーラスで歌いながら、ヨガの練習も始めていました。
そして、そこには何の違いもないということに気がつきました。
みんなが神のために、繋がりのために歌っているということ。それらはハートを開いて繋がるということが共通していました。

そのようにして私はバクティヨガへと導かれて、その後、「アンマ」(アムリタアーナンダーマイー)というインドの聖者に出会いました。
アンマ知ってるかたいますか?
「抱擁の母」と呼ばれている方です。
私は、今から15〜17年前にアンマに出会いました。
そのようにしてマントラやバクティの世界に入っていったんですね。
それは外側の判断、ジャッジではなく 心から歌を歌うこと、心を開いて愛を感じること、愛を表現すること。
神、大いなる存在に恋に落ちること。それと繋がること。と表現されるののはつまり、自分と繋がること、自分に恋をすることだと思います。
母の自然な愛。歌の中にも、そのような愛を見つけたダフネ。そして今の彼女へと続いていくーー
ABCテレビで、 アンマがインタビューを受けているシーンがあったんですけれど、その質問者が聞きました。
「どうして抱擁するんですか?」と。
「そのハグの目的は何ですか。」
それに対して彼女は、
「なぜ、海には波があるんですか」
というふうに返したんです。
それを見ていて、すごく美しいと思ったんです。
とても自然だと感じました。
お母さんが抱き締めること、それはとても自然な流れだと思ったんです。

そしてお母さんのように、自然に自分を養ってくれるもの、歌にはそういう力があると思ったんです。
その歌、自分の声っていうものが、自分を実際に養ってくれる。
栄養となってくれる。
そう感じて、私は歌うことの人生を、現在まで続けることになりました。
(続く)
この後は、ダフネさんへの質疑応答へと移ります。その内容は次回、お伝えしますので、お楽しみに。
そんなダフネ・ツェさんの来日ツアーが、今秋大阪・金沢・東京にて開催されます。
まさに魂に響く歌。ぜひこの機会に、彼女に会いに、ハートから紡がれるキールタンを体験しにいらしてください。
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